常設展メニコンDNA

芸術と技術が紡ぐメニコンの原点

メニコンの創業者 田中恭一、
弟でアドバイザーの田中勇輝、
そして父親でメニコン初代会長であり竹彫作家の
田中華山の作品を展開しております。

田中 華山

田中 恭一

田中 勇輝

父から子へ──メニコンのDNAの
伝承を伝える作品たち

メニコンの「ものづくり」の精神の起源は、
初代会長 田中華山〈田中嘉尚(1900-1990)〉にあるといえます。

創業者 田中恭一(1951-2024)の父 華山は竹で様々なものを作り彫刻を施す竹彫工芸家でした。
その彫りは緻密で繊細でありながら凛と力強く、
実用品を超えた芸術的な作品は高く評価され愛好家の手へと渡っていきました。

田中 華山

華山の子供たちは幼いころから厳しい父の工房の掃除や、
材料となる竹の油抜きなどの下準備の手伝いをしながら、
常に姿勢を正して一心に竹に向かう父の背中を見て育ちました。

そのような環境の中で、持って生まれた手先の器用さだけではなく、
妥協を許さずものごとに真摯に取り組む姿勢、
製品を手にする人のことを考え創意工夫する、
ものづくりの哲学もまた受け継がれてきました。

田中 恭一

田中 勇輝

この哲学は、恭一の代表作品である「刻画」、
勇輝の代表作品である「ボトルアーキテクチャ」からもうかがえます。

いずれも試行錯誤から独創の世界が展開された作品であり、
この作品の中にメニコンの技術力、独創・創造・挑戦の基本精神、
DNAの伝承をご覧いただければと思います。

竹彫田中 華山田中恭一の父「嘉尚」

1900-1990
株式会社メニコン 初代会長
愛知県一宮市が生んだ竹彫工芸家で、
雅号は「翠竹庵華山」、メニコンの初代会長。

明治33年(1900年)愛知県葉栗郡木曽川町(現・一宮市)で生まれる。
幼少のころより図画・習字に秀で、13歳にして工芸家の旗頭といわれた水谷華山に入門し、竹材彫刻を学んだ。厳格な師の厳しい指導に耐えて研磨8年、大正10年に許しを得て独立する。
大正14年に愛知県特産物工芸品展覧会に香炉茶器など8点を出展したところ、駐日アメリカ領事がすべて買い上げ本国へ持ち帰ったのがきっかけで、田中華山の名は一躍工芸界に広まった。
田中華山の得意は、師匠譲りの細字彫で、これまでに手にかけた作品は、花入れ・香炉・筆筒・掛額・印材・煙草入れ・根付・帯留めなど数百余種にのぼる。

文房具や茶器各種は、精緻で繊細、それでいて凛として力強い作品で、実用品の枠を超えた高い芸術性が評価されており、皇室への献上をはじめ、多くの愛好家に親しまれていた。

恭一の起業した東洋コンタクトレンズ㈱(現:㈱メニコン)の初代会長に就任後は、「精美眼晴」「心富」など、想いを込めた造語を書とし掲げるほか、社歌の作詞、社訓の作成など会社の基本精神の形成に深く関わり寄与した。

「私の仕事はこれで良いという段階がなく、頂上のない山登りのようなものです。」 純日本工芸家らしい謙虚な姿のまま、1990年に惜しまれつつこの世を去った。享年90歳。

妥協を許さず物事に真摯に取り組む姿勢と精神、製品を手にする人のことを考え創意工夫する「ものづくりの哲学」は見事に恭一・勇輝、そして社員へと受け継がれている。

田中 華山作品ピックアップ

仁丹入れ「観音図・心経」
根付ダルマ初代水谷華山と田中華山の合作

約3センチ四方のスぺースに「般若心経」が彫られた仁丹入れ。
ただ引っ掻くだけという彫りではなく、竹の硬い曲面にまるで筆で書くように彫刻刀で超極細な文字を彫っている。彫った文字は、最後に墨を入れるまでは、生地と同色で見えにくく、呼吸を整え集中し一気に彫り上げなければならない。

仁丹入れ「観音図・心経」根付ダルマの画像

刻画田中 恭一田中華山と妻はるの次男

1931年〜2024年
株式会社メニコン創業者
日本ではじめて角膜コンタクトレンズを開発し起業。
生涯をコンタクトレンズの開発と普及に捧げた一方で、
余技においても独自の道を切り開く。

創業家のご紹介

昭和6年(1931年)、竹彫工芸家田中華山と妻はるの次男として、愛知県葉栗郡 木曽川町(現・一宮市)で生まれる。
幼少のころから父親の作品や制作過程を日常的に目にしてきたため、身近な存在だった竹で竹トンボをつくる、木片があれば下駄を、ワラがあれば草履をつくる、コマ回しが流行ればコマを作って遊ぶなど、恭一にとって”ものづくり”はごく自然な行為であった。

1951年に日本ではじめて角膜コンタクトレンズを開発し起業。その生涯をコンタクトレンズの開発と普及に捧げた一方で、余技においても独自の道を切り開いてきた。

釣りや園芸などの趣味の他、知人に勧められて独学で油絵を、また父の竹彫にも影響され、「父が竹なら、自分は木でいこう」と五十代半ば過ぎから、木彫りを始めた。
最初のころは「愛総不怒正考」「集中考」など、自らの思いを表す造語を彫っていたが、何か物足りなさを感じていたとき、ふと父の水墨画「達磨大師画」が目に付き、彫ってみたところ、それを見た母親に褒められたのが嬉しく、「達磨大師」の木彫りに熱中していくことになる。

達磨大師の絵を板に彫り彩色する作品は、同様のカテゴリーがなかったので「刻画」と称した。恭一の人生訓やモットー、禅語などを賛とし、作品となっている。
材料の木材や木目などにもこだわった作品は900点にのぼる。チャリティ個展も開催し、その売上げはすべて社会貢献として寄付。
また、この刻画は各地に寄贈されているが、遠くは、達磨大師の面壁九年の修行の地、中国の「嵩山少林寺」にも奉納されている。
晩年まで、創造への意欲は尽きることなく、後進への育成にも力を注いだ。
2024年3月永眠。享年92歳。

田中 恭一作品ピックアップ

刻画「道一以貫之」自分が進むときめた一つの道を貫く尊い意志

独学で始めた「刻画」は、様々な禅語や人生訓、恭一のモットーが添えられています。
「道一以貫之」はコンタクトレンズの道を拓き、その道を貫いた恭一が生前大切にした言葉です。

刻画「道一以貫之」

ボトルアーキテクチャ田中 勇輝田中 恭一の弟/華山の六男

1942年〜
株式会社メニコン アドバイザー
最新のコンタクトレンズ・眼内レンズや
新製品の製造工程の研究と指導にあたる

昭和18年(1942年)竹彫工芸家田中華山と妻はるの六男として、愛知県一宮木曽川町で生まれる。
恭一と同じく、幼いころから厳しい父の手伝いをしながら常に姿勢を正して一心に竹に向かう父の背中を見て育った。

父華山の器用さと、独創的な芸術家魂を受け継いでおり、ボトルシップにヒントを得た、極端に口径の小さいボトルの中で精巧な建造物の縮小版を組み立てる作品を得意とし、他に類をみないことから「ボトルアーキテクチャ」と独自に称することにした。
市販のプラモデル建造物では面白味がないと感じ、有名な建築物の設計図面を起こし、ボトルのサイズに合わせ縮尺調整し、丸太を切り細かなパーツを削り出し組み立てて、制作している。
なかでも、メニコン創業60周年記念事業の一環として制作した薬師寺の西塔は、ギャラリーMenioを代表する作品となっており、2017年、新たに対で制作した西塔・東塔は奈良薬師寺に奉納され本坊(お写経道場)玄関ホールに展示されている。

独学で始めた仏像彫刻はのちに江場琳黌大仏師に師事し、プロの彫刻家をも驚愕させる作品を生み出している。こうした作品にみられる精緻な技術と豊かな発想力はメニコンの生産開発のアドバイザーとして、如何なく発揮されている。

田中 勇輝作品ピックアップ

ボトルアーキテクチャ「薬師寺西塔」制作年 2011年/サイズ 高さ120cm/素材 イチイ

メニコン創業60周年事業で、構想から制作まで3年をかけて作られた。
部品は1本の丸太からすべて切り出し、すべて手作りで作られる。入り口わずか18センチ、ボトル直径43センチの特注ガラスドームの中で44分の1スケールの薬師寺西塔を組み立て、制作。
新たに制作した西塔・東塔は2017年に奈良薬師寺に奉納。
現在は、西塔1体をギャラリーMenioでご覧いただくことができます。
制作の様子は以下サイトよりご覧いただけます。 創魂~無から有を生み出す、ものづくりの極点への挑戦~ https://www.menicon.co.jp/company/soukon/

仏像 如意輪観音

平成5年から独学で始めた仏像であるが、翌年から大佛師 江場 琳觀師のもと指導を受ける。その後多くの仏像を制作、展示会にも出品。現在も制作を続けている。

創業者生誕の地
尾州・木曽川町​

尾州木曽川町の地図

創業者生誕の地
尾州・木曽川町​

木曽川沿岸は、豊かな自然と人々の知恵が育んだ「ものづくりの地」です。この地で生まれた田中恭一は、日本初の角膜コンタクトレンズを開発し、この地で株式会社メニコンを創業しました。

メニコン創業者・田中恭一は、1931(昭和6)年、愛知県葉栗郡木曽川町(現・一宮市)に生まれました。

黒田国民学校(現・一宮市立黒田小学校)を卒業後、名古屋市の老舗眼鏡店で働き始めた恭一は、1950年、常連の米軍将校夫人が持っていた当時珍しいコンタクトレンズを見せてもらえなかった事をきっかけに、「コンタクトレンズを自分で作ろう」と決意します。

米軍将校夫人と恭一の写真

恭一は自分や家族の目を観察して自らデザインを作り、飛行機の窓に使われていた風防ガラス(アクリル樹脂)を削り、自分の目で試作を重ね、わずか3か月で黒目だけを覆うコンタクトレンズを完成させました。
当時主流だった白目まで覆うレンズとは異なり、田中のレンズは「痛くない」「よく見える」と評判になりました。

当時の白目まで覆うコンタクトレンズと、恭一が作った角膜コンタクトレンズ

自宅の一室を作業所に改造し、1952年には「日本コンタクトレンズ研究所」を設立。
材料や工作機械の調達からレンズの設計・制作まで恭一達のオリジナルであり、​製品検査・実験は恭一、自らの目で行いました。​

日本コンタクトレンズ研究所を創設した木曽川町の自宅
木曽川での装用実験(恭一) 装用確認(恭一)

以降、恭一のレンズが日本初の角膜コンタクトレンズとして普及していきます。​
1957年に名古屋へ移転するまで、木曽川町で独自の発想と努力で、試行錯誤しながらコンタクトレンズの開発・製造を続けていました。

創業60周年の記念事業の一環として、2011年6月に恭一の創業精神を後世に伝承していくため、愛知県一宮市(旧木曽川町)の白山神社のご協力により記念碑を建立しました。 表面には会長の創業時のプロフィール、裏面にはメニコンと旧木曽川町の簡単な歴史年表と創業当時の木曽川町の地図が記されています。
※白山神社(愛知県一宮市木曽川町黒田九ノ通り51番地)の入口にあります。

メニコンコンタクトレンズ創業の地、一宮市白川神社に建立された記念碑 記念碑裏面

本ページにてご紹介している作品は、
いずれも常設展示としてご覧いただけます。
ぜひ会場にて、写真や映像では伝わりきらない
質感や息づかいをご体感ください。

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